東京高等裁判所 昭和63年(行ケ)202号 判決
一 請求の原因一ないし三(特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨、審決の理由の要点)については、当事者間に争いがない。
二 本願発明の課題
成立に争いのない甲第二、第三号証(本願発明の出願公告公報及び特許法一七条の二第四号の規定による手続補正書。以下、両者を総称して「本願特許公報」という。)によれば、本願発明は、コーテイングを有する写真用フイルムベースに感光性写真乳剤を塗布することによつて感光性写真フイルムを製造する方法に関するものであること、感光性写真フイルムは通常プラスチツクフイルムからなる支持体とそれに塗布された感光性写真乳剤とからなつているところ、写真乳剤は親水性を有しているのに対しプラスチツクフイルム支持体は疎水性を有しているため両者を適切に付着させることは困難であり、従来の技術では、フイルム支持体の表面に先ず重合体下塗り層を塗布し、次にゼラチン下塗り層を塗布し、その上に写真乳剤を付着させるなど、フイルム支持体と写真乳剤との中間に二種類もしくはそれ以上の下塗り層を挿入するのが一般的な製法であるが、このような従来の製法は、煩雑であるため、これをより便利にかつより経済的に行うことが望まれていたところから、本願発明は、重合体下塗り層に写真乳剤を直接付着させることを可能とし、あわせて付着力改善のために従来常用されてきたゼラチン下塗り層の省略を可能にすることを目的とし、前記の本願発明の要旨のとおりの構成を採ることによつて、右目的を達成するものであることが認められる。
三 取消事由に対する判断
1 引用例記載の発明の概要
引用例に審決の理由の要点2記載のとおりの記載が存することについては、当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第四号証(引用例)によれば、引用例記載の発明は、プラスチツクフイルムに接着すべき被着物質に対して接着性を改良された面を有するプラスチツクフイルムに関するものであることが認められる。
2 本願発明における有機溶剤と引用例における膨潤剤との違同
引用例記載の発明におけるプラスチツクフイルムが自己支持性であること、ポリスチレンが実質的に水不溶性であり、スチレン共重合体が、その他の共重合単量体によつても異なるが、一般に水不溶性のものを含むことについては、当事者間に争いがないが、原告は、引用例の膨潤剤が本願発明の有機溶剤に該るとした審決の認定を争うので、以下、判断する。
(一)(1) 前掲甲第二号証によれば、本願発明における下塗り組成物として用いられるスチレン及び(又は)スチレン誘導体からなる単独重合体及び(又は)共重合体(以下、「スチレン重合体」と略称する。)は実質的に不水溶性であり、同重合体は水分散液あるいは有機溶媒溶液(なお、溶媒と溶剤とが同義語である。)として使用すべきものであつて、本願発明における有機溶剤は、下塗り組成物を構成する実質的に不水溶性であるスチレン重合体の溶媒溶液を調製するためのものであること、具体的には有機溶剤としてメチレンクロリド(例三、二一)、メチルエチルケトン(例二二)が用いられていることが認められる。
(2) 更に、前掲甲第二号証によれば、本願特許公報には、「プラスチツクフイルムを製造した後において重合体下塗り層を塗被するような場合には、フイルム表面に対する下塗り層の付着するような方向でフイルムを前処理するかあるいはコーテイングを施してもよい。」との記載(七欄一八行ないし二二行)、「プラスチツクフイルムが例えばポリエチレンテレフタレートのような線状ポリエステルであるような場合には、上述のような前処理は、フイルムに対する膨潤作用あるいは溶媒作用を具えているような物質をフイルム表面に塗布することを包含していてもよく、このような物質としては、例えば、p―クロロ―m―クレゾール、2、4―ジクロロフエノール、……、4―クロロレゾルシノールあるいはこのような化合物の混合物を例えばアセトン又はメタノールのような一般的な有機溶剤に溶かして得られる溶液をあげることができる。」との記載(七欄二九行ないし四一行)の存することが認められる。
(3) 本願発明についての前記(1)及び(2)の認定によれば、前記(1)の有機溶剤はスチレン重合体の溶媒溶液を調製するためのものであり、前記(2)の有機溶剤はこれと異なり、フイルムに対する膨潤作用あるいは溶媒作用を具えた物質(p―クロロ―m―クレゾール等)を溶かすためのものであり、そしていずれの有機溶剤も、フイルムに対する膨潤作用あるいは溶媒作用を具えた物質、すなわち膨潤剤とも別個のものであると認めることができる。
(二) 一方、前掲甲第四号証によれば、引用例には、膨潤剤については、「膨潤剤は、プラスチツクフイルムを膨潤あるいは一部膨潤する化合物であり、……」と記載され(二頁左上欄一九行ないし二〇行)、有機溶剤に関しては、「これら膨潤剤をプラスチツクフイルムの少なくとも片面に被覆するには、例えば膨潤剤単独あるいは膨潤剤を二種以上併用して直接プラスチツクフイルムに浸漬、塗布、噴霧等の手段によつて被覆せしめる、もしくはプラスチツクフイルムに対して膨潤作用を示さない有機溶媒を用いて、これに膨潤剤を溶解または分散した溶液または分散液でプラスチツクフイルムに浸漬、塗布、噴霧等の手段により被覆せしめることができる。このとき用いる有機溶媒としては、水、メタノール、エタノール、アセトン、メチルエチルケトン、ベンゼン、トルエン、メチレンクロライド、……等一般に使用される有機溶媒が用いられる。」
と記載されていること(二頁左下欄三行ないし一八行)が認められ、右記載によれば、引用例は、膨潤剤はプラスチツクフイルムを膨潤せしめるもの、有機溶剤は、プラスチツクフイルムに対して膨潤作用を示すことなく、膨潤剤を溶解するために用いられるものと、用語を使い別けていることが認められる。
(三) 前記(一)に説示したように、本願発明において、下塗り組成物のスチレン重合体を溶解する有機溶剤、フイルムに対する膨潤作用あるいは溶媒作用を具えた物質を溶かすための有機溶剤、及び、フイルムに対する膨潤作用あるいは溶媒作用を具えているような物質としての膨潤剤をそれぞれ別のものとして本願特許公報に記載しており、また、前記二に説示したように、引用例においても、膨潤剤と有機溶剤とは異なるものとして記載されており、これらの膨潤剤、有機溶剤の用語を対比すれば、本願発明の有機溶剤と引用例の膨潤剤とが別個のものであることは明白であり、引用例の膨潤剤が本願発明の有機溶剤に該たるとした審決の認定は誤つたものといわざるを得ない。
(四) なお、被告は、溶解作用のある有機溶剤は膨潤作用を持ち、膨潤剤となり得るものであるから、引用例における膨潤剤にポリスチレンやスチレンと他の単量体との共重合物を含有溶解させたものはスチレン重合体の有機溶剤溶液に他ならないと主張する。成立に争いのない乙第二号証(特開昭四九―三九七二号公報)によれば、同号証には、「プラスチツクフイルムの溶剤及び膨潤剤は、……代表的なものとしてレゾルシノール、……メチレンクロリド、……アセトフエノン」なる記載(七頁右下欄一〇行ないし一八行)があり、具体的に開示されている物質の側からみれば、同一の物質が溶剤あるいは膨潤剤として用いられるものであること、すなわち溶剤は膨潤剤として用いられ得るし膨潤剤は溶剤ともなり得るものであることを認めることができる。しかしながら、乙第四号証(特開昭四九―四五七一六号公報)によれば、同号証には、「該共重合体の典型的な溶剤としては、メタノール、エタノール、プロパノールの如きアルコール類、アセトン、メチルエチルケトンの如きケトン類、メチレンクロライド、……などがある。」(三頁右下欄一四行ないし一八行)、「本発明の方法では、いずれの溶剤又は水の溶液で下塗してもよいが、支持体自身、ケトン類、ハロゲン化炭化水素類により膨潤又は溶解する性質を有しているため、一般には支持体に対しては非溶剤であるアルコール溶液、特にメタノール溶液として用いるのが好ましい。」(四頁左上欄二行ないし七行)等の記載が認められるところから、溶剤は使用する目的に応じて区別して適用されるものであることが理解されるところであり、一般に、膨潤剤として有機溶剤に該たるものが用いられるとしても、膨潤剤及び有機溶剤の用語は、これらを適用する対象物との関係で、その意図する機能に応じて区別されて用いられていると解するのが相当であり、本願発明においても引用例記載の発明においても両者は区別して用いられていることは前記認定のとおりであるから、被告の右主張は採用できない。
3 本願発明と引用例の技術構成についての違同
(一) 引用例の記載について再説すれば、引用例には、プラスチツクフイルムの表面に膨潤剤もしくは該膨潤剤を含む溶液又は分散液を被覆して乾燥した後、電子衝撃処理を施し、その上にハロゲン化銀写真乳剤層を直接塗布してなる感光性写真フイルムとその製造方法が開示されていること、該プラスチツクフイルムとしてはポリエステルフイルムが代表的であること、膨潤剤もしくは該膨潤剤を含む溶液又は分散液にはポリスチレン又はスチレンと他の単量体との共重合物を含有させてもよいこと、電子衝撃処理とはコロナ放電装置を用いる処理であること、膨潤剤もしくは該膨潤剤を含む溶液又は分散液による被覆処理と電子衝撃処理の結果、プラスチツクフイルムに対して接着し難いハロゲン化銀写真乳剤を簡便かつ強固に接着させることができるとの作用効果が得られることが記載されており、特にスチレン重合体含有に関し、前掲甲第四号証によれば、引用例には、「プラスチツクフイルムに被覆される膨潤剤もしくは該膨潤剤を含む溶液または分散液は、必要により硬膜剤、アンチブロツキング剤、界面活性剤等の添加剤を含有せしめてもよい。また、更には高分子物質を含有せしめてもよく、ある種のプラスチツクフイルムに対しては、被着物質の接着性を更に向上せしめることができる。このような高分子物質としては、例えば、……、ポリスチレン、スチレンと他の単量体との重合物、……が挙げられることの記載があることが認められる(二頁右下欄三行ないし三頁左下欄一五行)。
前掲甲第四号証によれば、引用例には、具体的に以上の記載にそう実施例として、二軸延伸ポリエチレンテレフタレートフイルム(ポリエステルフイルム)にスチレン―無水マレイン酸一対一共重合物(スチレンと他の単量体との共重合物)(分子量約三万)二gとジメチルスルホキシド(膨潤剤)一〇gとアセトン(有機溶剤)九〇mlとからなる溶液を塗布、乾燥後、コロナ放電してからメーレイ用ハロゲン化銀乳剤(感光性写真乳剤)を塗布することによりすぐれた接着性を得たことが記載されていることが認められる(四頁右下欄三行ないし五頁左上欄下から一一行)。
(二) 右によれば、引用例には、膨潤剤を含む有機溶剤溶液にスチレン重合体を含有せしめた溶液を自己支持性のプラスチツクフイルムの表面に塗被、乾燥し、その後コロナ放電等の処理を施した場合にプラスチツクフイルムに対する被着物質のすぐれた接着性が得られることを示す記載があるものということができるところ、この記載は、スチレン重合体の有機溶剤溶液による被覆層の形成を開示するものであると認められ、この被覆層は本願発明における下塗り層に相当するものであるから、引用例記載の発明においては、実質的には、最下層がプラスチツクフイルム、中間が下塗り層、最上層が感光性写真乳剤層という三層からなる断面構造のものが開示されていると解するのが相当であり、結局、本願発明と引用例記載の発明とは技術的構成の一致する同一の発明であると認めることができる。
もつとも、引用例の有機溶剤溶液には膨潤剤が含有されているが、膨潤剤そのものは特に一つの層を形成するものではなく、被着物である感光性写真乳剤層を接着する目的でフイルム表面を膨潤させるために塗布されるものであるから、本願発明の有機溶剤溶液が膨潤剤を含有する場合を排斥するものではなく、現に、前記のとおり、前掲甲第二号証の本願特許公報には、「プラスチツクフイルムを製造した後において重合体下塗り層を塗被するような場合には、フイルム表面に対する下塗り層の付着するような方向でフイルムを前処理するかあるいはコーテイングを施してもよい。」との前処理に関する記載があり、その前処理の具体的方法として、プラスチツクフイルムがポリエチレンテレフタレートのような線状ポリエステルであるような場合には、フイルムに対する膨潤作用あるいは溶媒作用を具えているような物質、すなわち膨潤剤であるp―クロロ―m―クレゾール等の化合物の混合物をアセトン又はメタノールのような一般的な有機溶剤に溶かして得られる溶液をフイルム表面に塗布してなすものであることが認められるから、本願発明は、任意的であるにせよ、膨潤剤を含有する有機溶剤溶液によるプラスチツクフイルムの表面処理を前処理として行うことを包含する発明であつて、前処理を行う場合の本願発明と前記(一)の引用例記載のものとは、その技術構成において同一のものであるといえる。
(三) なお、原告は、引用例には高分子化合物としてポリスチレンやスチレンと他の単量体との共重合物が挙げられているが、かかる物質を含む膨潤剤であつても塗被後乾燥すると本願発明の下塗り層のような独立した層として存在するものではないと主張するが、原告は、その独立した層として存在するものではないとする根拠を示しておらず、他方、引用例のスチレン重合体を含有し膨潤剤を含む有機溶剤溶液と本願発明のものとは、その技術構成において差異を認めることができないものであることは前記のとおりであるから、引用例においてもスチレン重合体の下塗り層が本願発明におけると同様に形成されていると解するのが自然であり、同認定を覆すに足りる証拠も存在しない。
4 結論
以上によれば、引用例の膨潤剤が本願発明の有機溶剤に該たるとした審決の認定は相当ではないが、本願発明は引用例に記載された発明と同一であるとした判断自体は正当であつて、原告主張の取消事由は理由がないものといわざるを得ない。
四 よつて、審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は失当であるからこれを棄却することとする。
〔編注〕本願発明の要旨は左のとおりである。
スチレン及び(又は)スチレン誘導体からなる実質的に不水溶性の単独重合体及び(又は)共重合体(スチレン及び(又は)スチレン誘導体は、共重合体を構成するところの主たる単独単量体成分である)の水分散液又は有機溶剤溶液からなる下塗り組成物を自己支持性のポリエステルフイルムの表面に塗被し、塗被後の下塗り層の表面をコロナ放電処理に供し、そしてコロナ放電処理後の下塗り層の表面に感光性写真乳剤層を直接塗被することを特徴とする感光性写真フイルムの製法。